出典: A Brief History of Early and Pre-Classical Greece, Classical Drama and Theatre

NAVERまとめ – トロイの遺跡発掘のシュリーマンは江戸時代の日本に来ていた。

トロイアの遺跡発掘は1871年。その6年前の1865年に、ハインリッヒ・シュリーマンは日本を訪問。時代は幕末で尊皇攘夷に揺れる明治維新前夜という不穏な社会情勢。ロシアの商社が成功し、巨万の富を得たシュリーマンは世界周遊の旅の途中で日本のすばらしさを聞くようになり、日本に来ることになった。日々の出来事を日記に書きとめて、本の題材とすることになる。

だが、この『シュリーマン旅行記 清国・日本』はシュリーマンの最初の著作である。原書は“La Chine et le Japon au temps present”で、そのまま訳すと「現在のシナと日本」である。商売には成功したが、著述家や研究者としては何の経歴もなし。その後の考古学研究を始める前の準備段階の一つとして考えるべきかもしれない。シュリーマンはこの本をフランスで出版した。オールコックの『大君の都』が1863年に出版され、シュリーマンも著書の中でオールコックの本に言及している。シュリーマンの日本旅行記はまだ未知の国で情報も少ない時代の貴重な情報だった。1870年代から始まるジャポニズムにも影響を与えていた可能性がある。

シュリーマンの乗った船は江戸にすぐに上陸することはできなかった。江戸湾は外国船の行き来が禁じられ、横浜に外国人居留地が作られた。シュリーマンも横浜で下船する。横浜港には各国の軍艦が停泊し、いざという時のために準備をしている。江戸までは遠く、威嚇的な意味合いもあまり効果がない。彼はしばらくは横浜を拠点に日本観光をしていたようだ。だが、横浜到着後から江戸に移動するまでの期間は八王子訪問を除くとほとんど語られていない。八王子へ行くのがこの時期の一番の遠征だったのだろう。現在からすると、どうして八王子に行ったのだろうと不思議に感じるが、横浜港の開港で絹、すなわちシルクの輸出が活発になり、八王子の養蚕業がこれまでにない発展を遂げていた。絹の道資料館の情報を見ていると、異人館というのがあったとの記載がある。シュリーマンだけではなく他の外国人も絹の産地として来ていたのだろう。

八王子へ向かう途中で原町田の茶屋によるのだが、これが現在の町田周辺である。日本でも戦後はシュリーマンの伝記がよく読まれていたのだから、誰かが言い出してシュリーマン記念碑でも立ててもいい気がするが、トロイヤ遺跡の発掘の話だけでこの本にまでたどり着いた人はいなかったことになる。講談社学術文庫で出版されたことは、幕末の資料としても貴重だ。ネットで見てみると、シュリーマンの本を手がかりに当時の外国大使館を巡り歩いている人もいる。だが、文献としての歴史的な研究は放置されているように思えて仕方がない。

キリスト教徒ということもあって、外国人の日付の記述は正確だと思われるが、家茂の行列が横浜を通り過ぎた日付は6/10だと記している。ウィキペディアの和宮の記事だと、5/16日ということになるが、これは一致しているのだろうか。

シュリーマンは偶然にも徳川家茂が関西に向かう行列を東海道で見ることになる。当時は幕府と長州藩の間で紛争があり、徳川家茂は関西に向かう。家茂はその後に病気となるため、この行列で江戸を去った後、戻ることは無かった。シュリーマンの関心は翌朝に見つけた三つの死体だった。行列をしらずに飛び出した農民、上官から農民を切るように言われた部下、そして切捨てを命じた上官の三人の遺体だと聞かされる。

シュリーマンはグラヴァー商会の仲介で江戸へ行くことになるが、ここでも奇妙なことを言っている。このグラヴァーというのはドイツの有名な医者の息子だというのだ。長崎のグラヴァー邸が有名なので訳者はトマス・グラヴァーと関連づけているが、もう一人のグラヴァーがいたのではないだろうか。

 

シュリーマンの『清国・日本』シュリーマンの観たという演劇はブラックユーモアに溢れた話で、シュリーマンも楽しんだ。シュリーマンからすると控えめで温厚な日本人だというのに、観客たちはこのひどい話を喜んでいることを意外に感じている。それはこんな話だ。

与力が路上の博打をとがめようとしたが、ついつい参加して博打に大負けして裸にされる。そこに町奉行がやってきたので、泥棒にやられたと嘘でごまかす。若い女がやってきて、与力が自分をだましたこと、泥棒に取られたのではなく、博打に負けてすべて取られたのだと訴える。町奉行は与力が嘘を言ったことに激怒し、切腹かさらし首を言い渡す。与力は情けで切腹を許してくれたことを喜び、女にも詫びて切腹して果てる。

シュリーマンの旅行記を読んでいると、そこには思った以上の情報が織り込まれていて、どれもがすぐには歴史的検証ができない話題が並んでいる。演劇に関する記述がまさにそれにあたる。シュリーマンが見た劇場は猿若町の江戸三座のどれかなのだろうが、それがどれかはよくわからない。また演目となった物語がどのような演目だったのかも不明である。ストーリーをかなり詳細に書いているので、脚本が残されていればわからないはずはない。だが、誰も答えを与えていない。演目がわかれば自然と市村座か中村座かとわかり、そこに出ていた役者が誰だったのかが判明しそうなものだが、資料も無くて、もしかすると答えはないのかもしれない。また「タイシバヤ」と言っているが、戸坂康二の対談に「シバヤ」という言い方があったことが触れられているが、この言い方については不明点があるらしい。

私自身も昔読んだ勝本清一郎の本だろうかよく覚えていないが、江戸時代の歌舞伎の演題の多くが新政府によって禁止されたとの一節があった。歴史に埋もれた歌舞伎作品の一つということになるのかもしれない。

NAVERまとめ – トロイの遺跡発掘のシュリーマンは江戸時代の日本に来ていた。